昭和四十六年十一月三日 朝の御理解
御理解第六十四節 「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ」
此方というのは金光大神のことでございますよね、金光大神ご自身のこと。私は信心が好きであった。ためには、それこそお宮さんであろうが、お寺さんであろうが、拝むところといえば、もう子供の時から、あそこにも、ここにもお参りをして、お四国を御遍路なさったことまである。伊勢参宮もなさった。もうとにかく神信心がお好きであったと。
まだお年は、御養子にお出られた年は十二歳であった。その十二歳の教祖様が、養家の御両親に向かって、私は神参りが好きでございます。だから休みの時、休みの時は快う参らせて下さいと言うのが、御両親に対する願いであった。養子に行かれてそのことを願われた。そのためには、やはり自分の好きなことをするのですから、人一倍の精進もなさった。
あちらに大きな瓦屋さんがあったらしい、その瓦屋さんに松葉をかいて村の人達が暇々にそれを売るわけですね。ですからそういうこともやはりなさった。普通の人が一日に二回しか参りませんところを、教祖様は三回行っておられます。そしてその二回分のお金は御両親にやられる。一回分のもんだけを神佛参りの御賽銭に、又は旅費に使われたと御伝記に残っております。という程しに好きであった。
此方というのは、いわゆるその人のことである。此方金光大神、又は此方は参って尋ねるところがなかった。随分とその信心がお好きであって、拝むことが好きであった。けれども尋ねるところ、信心はどういうことかということでも、尋ねるところがなかった。そこからその当時の、言うところの庶民宗教と申しましょうかね。あらゆる何々様、かんなに様と言うところへお参りになられた。段々御信心がお進みになられる。まあそれは実意を尽くしてのお参り。 例えば、お四国に村中の方達とお参りになった。そこで今でいうならレクリエーションを兼ねてと言うところであったでしょうかね。ですから、もう険しい山にお祀りしてある、又は谷の下の方にお祀りしてあるといったような、御大師様とか、お不動様とかいったようなところには、もうあそこに祀ってある御大師様というて拝んだ、ですね、皆が。
ところが教祖様は連れから外れてから、やはり山の頂きに祀ってあれば山の頂きに、谷間に下らなければならないならば、谷間に下
ってやはり拝んでおられた。ですから、自然、連れとはぐれて行かれるけれども、やはりお四国さんを一巡なさってから、船場に着いた時には、一緒になられたという話があります。
此方は参って尋ねるところがなかった。そういう、尋ねる人も、教える人もなかった中に、只、神信心が好きでそのようなことを色々なさった。そして四十二歳のあの大患である。もう水一滴も喉を通らんという程しの大病をなさった。そこから教祖様の御信心の、新たな芽というか、ものが開けておりますですね。四十二歳の大患を境に、そのような感じが致します。
当時、金神様も拝まれたこともありましょう、又、金神様の教えと言われておることは一々守られた。普請をさられる、造作をされるについても、もうこれ以上のことは出来まいというように、金神様の御機嫌を伺うてからの御普請であったのにもかかわらず、あの大患をなさった。もう命が今夕に迫っているような状態ですから、親戚、近所皆が集まって一心に看病なさる。又は当時の信仰でありますところの、石槌の神様を拝まれる方がありまして、その方を枕元にお祀りして家族、親戚、隣近所の者も集まって、一生懸命で御祈念をなさった。
そういう時に新屋の次郎という方に神懸かりがあって、この家の主人が病気をしておるのは、この家を大きくする時に、豹尾金神に無礼があったとお伝えあった。その時に、教祖様の奥様のお父さん、いわゆる古川八百蔵さん。これは私の豊美が行っておるところの曽祖父になられますでしょう、八百蔵と。
その古川八百蔵さんが教祖様の御信心振りというものを知っておられるし、又、家を建てられる、造作される時にもうそれこそ手の要る、例えばここを造作したらいけないと、それで一ぺんこの家を空き家にして、納屋にしばらく移られたと。そしてこの家に人間が住んでいないことにして、金神様のお許しを頂いたというような手の込んだことまでなさっておられる。
それを見ておられるものですから、その八百蔵さんが仰った。 「外の者ならいざ知らずですけれども、この家の主人に限ってはそういう御無礼は絶対にしとらん」と仰った。そしたら、その石槌の神様が威丈高にですね、その次郎さんに仰っとられます。「そんならこの家の主人の命が無くなってもよいか」とこう仰っとられます。
それを夢、現に病床で聞いておられる教祖様が、「ああ、お父さんはなんと御無礼なことを言われるじゃろうか」と、思われた途端に喉が開けた。「人間生身のことでございますから、それはあそこは見え、ここは手をつくしたとはいいながら、人間凡夫のことで、どこに御無礼があったやら、どこにお粗末があったやらわかりません。只今氏子の申し上げましたことは間違いでございます。只今のことは平に、平にお許しを下され」と言うて、そのものが喉が開いたそのことで、神様にね、次郎さんに懸かっておられる石槌の神様に向かってそれを念じられた。
そしたら石槌の神様が、又、次郎さんを通して、「この家の主人は行き届いておる」と仰った。「五月の一日には験を見せる、験をやるぞ」と。お伝記に、五月五日の節句の日には菖蒲湯どもわかして、そしていうなら床上げをなさったという風に残っております。
「人間生身でございますから、どこに御無礼があるやら、お粗末があるやらわかりません。只今氏子の申しましたことは、間違い、平に、平にお許し下さい」という、そういう実意なところからです、実意な信心から、神様がほとほとと言うか、御心の状態に惚れ込まれた。
そこからです、神様からいろいろと御伝えがあるようになっておられます。そして、石槌の神様もなからなければ金神様もない、いわゆる天地の神、天地金乃神というように、御自分の信心の御神格というものが、段々お進みになるに従って、教祖様の前に表れる、神様がもう今まで見たことも聞いたこともなかった神様に変わっておいでられた。そして天地金乃神となられることになった。
そこから、例えばお道の信心が開けて来たわけですけれども、そういう私は最後のところに、「信心して徳を受けて、身凌ぎをするようになれ」ということですから、教祖の神様御自身が、身凌ぎがお出来になられるようになった。その過程を、私共はやっぱり神習わせて貰わねばならんと思うのです。
ですから、全ての事に実意。もうこの位のことはよかろう、よかよかといったようなものでなくて、私共は例えて申しますと、このようにして教えるところが無かったどころか、このように教えて頂いておる。桜井先生に、ある教会の先生が手紙を出しておられる。 おかげの泉を毎月送って貰うて、こういうことが毎日、いうならば何十年間続けてお話があっておるということは、もう大変なことなのです。もうそれを日々受けておられる方達は幸せだと、是非私も一ぺんお参りさせて頂きたいから、先生あなたの御教会のよかとき是非連れて参ってくれと書いてある。
尋ねるところがなかった。例えお道の信心をさして貰っておってもそうです。ここにお参りをさして頂いて、初めて聞く御理解。ああ、そういう御理解には、そういう深い御神意、御神慮があったろうかと、日々新たなことをわからせて貰う。いうなら、参って尋ねるところがあるわけである。
だから、尋ねるだけではいかん、その尋ねたことがです、いわゆる先程申しましたような、教祖様の人間凡夫で相わからず、どこに御粗末御無礼があるやらわからんという姿勢で、お詫びするところはお詫びし抜かせて頂いて、承るところは承らせて頂くという信心生活がなされなければです、私は身に徳を受ける修行にも、又身凌ぎが出来るようにならんと思う。只、参って尋ねるところがあるというだけではいかんということです。尋ねたことが行の上に、生活の上に表されて来るところに、昨日の御理解ではないですけれども、嬉しうて、楽しうて、有り難うて、という生活が開けて来るのです。本当な信心生活が。
今日は福岡教会の八十年記念の式年祭と、初代吉木営蔵先生の霊祭、いわゆる式年祭。六十年祭ですか。それから三代の吉木辰次郎先生の五年の式年祭があります。大変私共合楽教会にとっては縁の深い教会ですし、親教会の親奥様のお里でもあるし、私の福岡の修行中にはは毎日お参りさせて頂いて、三代吉木辰次郎先生の教えを頂いておるという、まあそういう縁があるわけです。
で、昨日ある方が来てから、「福岡あたりの親でもない、じいさんでもない、曽祖父くらいにしかあたらん教会に、そげんバスで参らんでもよかでしょうもん」という人がありましたけれども、うん、それはそう、けれどもね、これは私が福岡で修行中の、いうならあそこは修行場だった。特に吉木栄蔵先生の奥城では、もうそれこそ私の本当の修行場だった。お話の中にも出て参ります。
吉木先生の奥城はもう、随分遠い山の上にお祭りがしてある。もうそれこそ夜中にお参りをさして頂いて、直接いろいろと御霊様のお知らせを頂いたりした。いわゆる私の修行場なんです。言わば修行の後を尋ねるというような、印象のある教会。いろんな事情で御無礼しとるけれども、せめて五年、五年の記念祭くらいにはバスで。これはもう椛目の時代からでございました。記念祭にはバスで必ず、バス一台おかげを頂くことになった。
今度は皆予定しておられんでしょうけれども、結婚式の準備やら、ちょうど農繁期であることやらあってですか、お参りが少ないのです。けれども、どうでも自動車一台くらいは、今日は一つおかげ頂かんならんなと思うております。
その吉木先生が福岡の町にお道を開かれたという、そもそものこと、今日は初代と、二代と、三代の御伝記をお書き物にしたものが、今日は御直会になることを御通知を受けとります。さぞかし、立派な御伝記であろうと思います。
その初代のその御伝記をです、私共が少しわからせて頂いておるだけでも、成程もともと道を開くことは、大変なことだなあ、いや身凌ぎが出来るというようなことだけではなくて、それで人が助かるというようなことは大変なことだなあと思います。
吉木栄蔵先生は大体武士の出である。ですから、西南の役の時代などには、随分戦場に立たれて、剣道の達人だったらしいですね。随分と人を傷つけられたらしい、戦争で。それから病気を得られて悟られたところが、自分が過去に於いて沢山の人を、戦争でですけど、切ったりしておることを、それこそお詫びの印に、もうそれこそ何回ですかね、日本国中を遍路して廻られたのは、何年でしたかろうかね、もう何回かです。
それでどうにも、自分の心も晴ればれしませんし、病気の方もはかばかしくなかったところへ、小倉の教会に初めて縁を頂かれて、いわゆる一の弟子としてのおかげを頂かれた。
当時は、桂先生よりも年が大変多いです。もう六十幾つから布教に出られたというのですから。ですからもう、それだけの信心の、言わば実績というものを持っておられましょうけれども、先生の御弟子になられてから、もう一年後には、福岡に布教に出ておられます。
小倉から福岡の町に出られる。二代金光様にそのお届けをなさいます。なさいまして、福岡の町は仲々学生の多いところで、私のような無学の者がお道の信心を以て福岡に出て、まだ金光様のこの字も知らん人が多いという時代なんですからね。
ですから、とても困難であろうと言われました時に、四神様がね、栄蔵先生に仰っておられることは、「馬鹿と阿呆で道を開け」と仰った。学問はいらん、それがここでいつも申しております、いわゆる馬鹿と阿呆で道を開けと。吉木栄蔵先生のこれはもう信心の命とも思われる様な素晴らしい、そこに徹底しての御修行であった。
とにかく栄蔵先生が福岡の町に、お社を背中に担いで歩いて福岡まで参られる途中にね、背中の御社にからからとおいさみがね、立ち続けだったという。いかに神様がね、福岡にお道を開くことをお喜びになったことがわかりますね。そういうお喜びの延長が合楽なのです。言うならば、ああ、福岡の吉木栄蔵先生が福岡の町へ出た。久留米にも出るだろう、善導寺にも来るだろう、合楽にも開けるだろうと。
そういう神様の思いがそのような神様の感動なさるようになった。けれども仲々道が開けるということは大変なことであった。一人もお参りがない、金光様のこの字も知らん。もうそれこそ髭ぼうぼうとしてですね。それこそ仙人のような格好になられた。もう食べることなど眼中にない。
もう願行にかけては、この吉木栄蔵の右に出るものはおるまいと言われる程しに厳しかった。行が出来られた方なんですね。福岡の吉木栄蔵先生、ですからもう食べないとか、寝ないとかいうことはもう問題じゃない。ただお灯明代、お灯明の油代だけを、が、というのであった。
けれども、そのお灯明代すらが無くなった。ある時、桂先生が御祈念をなさっとる時に 『吉木栄蔵、飼料飢れ』とお知らせを受けられた。もう飼料飢れしよるとお知らせがあった。それで幾何かのお金を持ったり、ものを持ったりして来られたという話が残っております。そういう厳しい御修行なさっておられたけれども、人は助からん。
神様が小倉から福岡にお移りになられる時には、それこそおいさみのあり通し、背中で、という程しに、いさみにいさんでおられる神様だから、もう着いたらすぐにでも人がどんどん助かればよかりそうなものに、そうではなかった。
そこで栄蔵先生覚悟された。金光様、ここまでお供して参ったけれども、人が助からん、人が参っても来ん。これでは神様に対して相済まんというので、材木町と言われますね、材木やらが沢山こずんであるところではないでしょうか。そこに出られてから、神様にもう、武士ですから、割腹自殺を思い立たれた。腹を切って神様にお詫びをするというのである。
そして、いよいよその短刀を腹に突き立てようとすると、どこからか声がして来た。「死ぬには早い」と。もう自分が死ぬるか、生きるかといったようなところを通りよるけんで、自分の耳の迷いであろうかと思うてされると、又、声がかかった。三回続けてであった。神様がお知らせを下さっておると思って帰られたら、もうとたんであったということであったということですね。人がどんどんお参りしてきたのは。
一番初めに参って来た人というのは、市内の方でとにかく腹が、腹満のようで腹がこうやって腫れた病人が参って来た。御祈念をしておられると、御祈念中に音を立てて水が流れるようなおかげを頂いたというのが、おかげの受け始めというように言われております。まあそれからというものは、もうそれこそ門前市をなす程しに人が集まった。
この辺のところをですね、私は今日の身凌ぎが出来るということはね、やはりそういうような、先程から教祖様の例を取って申しますと、言うなら実意の限りを尽くされた上にも、これで済んだとは思わんと言う程しの信心。四十二歳の大患の時に、それがよう表れておる。いかに教祖様が実意であったかということ。
なら吉木栄蔵先生の福岡布教にあっても、それは実意丁寧神信心じゃないけれども、一心を立てるとか、人が助かることのためにと。そこに命を懸ける程しの、命を懸けるところから、道が開けておるところから見るとです、これは道を開く、徳を受けて道を開くことはそのように大変なことだということがよくわかる。
そこでここでわからせて貰わんならんことはです、ここへ参って来る者は、例えば、「元をとって道を開く者はあられぬ行をするけれども、後々の者は容易うおかげを受けられる」と仰るように、そういう血の出るようなところを辿られた方達のお話が残っておる。御教えが残っておる。それをここでは聞くことが出来る。
私は今日は、私共の親の親に当たる久留米の石橋先生のお話も、ああいう大徳を受けられた先生方の話もしたいですけれども、時間がないですから出来ませんけれども。元をとって道を開く者はあられぬ行をしておるから、後々の者は容易うおかげが受けられるということは、自分がおかげを受けて来た話。
もうそげな無理をせんでも、そげなところを通らんでもということは、ここをいっちょもってくれば徳を受けられるぞと教えておられるということなんだ。例えば石橋先生の場合であっても、「信心辛抱」と仰っておられる。吉木栄蔵先生は「馬鹿と阿呆で道を開け」と、本気で馬鹿にならして貰う。いよいよ人が馬鹿と言うても、人が阿呆と言うても心にさわらん修行をさして貰おうという精進を、あらゆる角度からここでは説き明かされとるわけであります。
馬鹿と阿呆で道を開く時、馬鹿と阿呆になる時はどういう時かということを教えられた。それはどういうことかと、言わばかんで含めるようにここでは、日頃頂いとるというのですから。その教えを頂くことを私は、身に徳を受けて身凌ぎが出来るようなおかげが受けられるんだと思うのです。
「信心して徳を受けて身凌ぎをするようになれ」と。自分で自分のことぐらい出来る。只そこを頂いただけでは仲々、でも普通素人では頂けるもんじゃない。身凌ぎが出来るようになるもんじゃないというように、まあくくってしまう。
そうじゃない。ここでは石橋先生とか、吉木栄蔵先生とか、成程教祖金光大神程の実意丁寧の信心が出来ませんにしても、吉木栄蔵先生を例えて言うならば、馬鹿と阿呆で、九州では二番目の教会であるところの福岡の教会をあのように道開きをなさった。
それには例えば、只今申しますような、命をかけての御修行もなさることながらです、『馬鹿と阿呆で道を開け』と仰る、四神様の御教えを御信心の筋金として、モットーとして九州福岡に道を開かれた。
ですから吉木栄蔵先生の辿られた、教えられたそのことをです。私は頂くということが、いわゆる「尋ねるところがなかった」と仰るが、私共の場合は教えて頂くことが出来る。だから教えて頂いただけじゃない、それを行ずることによって、身凌ぎの出来るような信心が頂けるのです。
というように、今日のような御理解を頂きますと、この六十四節が身近なもののように感ぜられるですね。只ここに拝読しただけでは、何か私共には縁のない遠いところにある御教えのように感じます。とても身凌ぎの出来るようには出来ん、そげにゃならんでんという感じが致します。
『此方は参って尋ねるところが無かった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身凌ぎをするようになれ』と教えておられる。
そんなら身凌ぎをさして頂くようなおかげ頂くためには、成程元をとって道を開かれた方の話を聞くと大変なことだけれども、それを様々に仕上げておいでられた。そしてその話を頂いて、しかも合楽では、それをかんで含めるように、馬鹿になることはどういうこと、阿呆になることはどういうことか、なぜどういうわけで、馬鹿と阿呆になったら大きな道が開けるかということを、かんで含めるように頂いてるわけなんである。
ですから、そのおかげを頂かして貰うことこそ、身凌ぎの出来る信心ということになるのではないでしょうかね。どうぞ